3/21追記:100年史「卒業生会を振り返る」-1-
私達は、学園の100年史編纂の資料作りのために、今までに発行された約200冊の卒業生会報と、名簿を調べてきましたが、その作業を通して、戦後間もない頃からの卒業生のさまざまな活動の様子を知ることができました。今日は時間の関係で卒業生会の歴史のほんの始まりの部分だけですが、委員会組織と卒業生大会のことをお話させていただきます。
今のような卒業生会の委員会組織ができたのは、約70年前の1953年(昭和28年)のことです。戦前には、同窓会的な組織はあったようですが、年々卒業生の人数が増えてきて、もっと社会に働きかけていけるような有力な組織を作りたい、という思いがあったからでした。
その頃、既に31回生までが卒業していて、総人数は約1400名でした。この委員会の組織作りの中心となられたのは、6回生の村上せつさんです。村上さんは、1928年(昭和3年)のご卒業で、消費組合や初等部に長年勤められ、学園に長く残っておられたことから、委員会組織ができる約20年前から、卒業生のために色々と尽くしてこられました。
ここに、委員室に保管されている一番古い会報があるのですが、これは委員会組織が発足する5年前の1948年のもので、タイトルは「卒業生会便り」となっています。村上さんの手書きの原稿と思われます。今のように写真はないですが、各地の卒業生に学園や目白の様子をお伝えしたいと、学園の庭に咲く梅の花のことから、ミスタ羽仁ミセス羽仁のご健康について、また礼拝のお話の内容やその頃すでに多くの卒業生が働いていた目白の明日館の様子などが書かれています。
1953年10月に発足した委員会は、村上さんを委員長として、各学年から出した委員19名で運営することになりました。委員会は毎月第1土曜日に明日館で行われ、仕事の係は、「会報」、「企画」、「経済」の3つでした。
「会報」については、卒業生の消息を伝え合うものとして、1年に3回は出すことになり、初めの頃は、消息不明の方を尋ねる記事が載ったり、全会員の職業の有無や健康のこと、子供や孫の人数まで調べて、その結果を報告した年もありました。会員がどこに何人くらい住んでいるのか日本地図にその人数を表した分布図も、たびたび会報に載っていて、1958年のものには総人数約1700名のうち東京には約半数の人が、また外国にも20名程がいらっしゃった様子がわかります。
このように東京在住の卒業生が多くいたことから、もっと集まる機会をつくって仕事や勉強をしたいと考え、それを計画するのが「企画」の係でした。この係は、数年後に「催し物」という係になっていますが、不用品を持ち寄ってのセールやお料理の講習会、映画、歌舞伎の鑑賞会などが催され、収益の一部を学園に寄付していました。
1955年の会報には、見出しに「待望の勉強会始まる」とあり、食グループの指導によるシュークリーム作りの写真が載っています。この他にも日本料理やフランス料理の講習会、羽仁恵子先生による英文学の講義などが行われたことも書かれています。東京オリンピックがあった1964年には、大型バス2台を借りてオリンピック施設を見学する、というその年ならではの企画もあったようです。
そして3つ目の「経済」の係は、皆さんに会費をきちんと納めて頂き、卒業生会が活発に活動していけるように2つの係と協力しながら経済のことを考える係でした。因みに初めの頃の会費は1人300円でした。
初期の卒業生は、委員会の中でもリーダー的な立場だったと思いますが、創立者への感謝の思いと共に、卒業生こそが学園の理想を社会に働きかけていく存在だという認識が強くありました。明日館で始められた消費組合や工芸研究所などもそうした理念のもとに卒業生が立ち上げ、現在にまで続く事業となったわけですが、一方で委員会では卒業生が組織として学園の発展を支えるために、また会員自身の成長のために何ができるかということを考え続けて活動してきました。のちに作られた規約にもその精神が表されています。(100年史編纂協力委員 56回生・吉澤)