父の足跡を辿って:フィリピン旅行記

 男子部9回生の父、田中久雄が生前手掛けていたボランティアの一つ、フィリピン・パナイ島のPandan水道事業25周年記念式典に、今年4月末に天に召された父に代わり息子と共に参加してきました。
私自身は今年度の南沢会委員としてIT業務を担当し、Webリニューアル作業直前の大事な時期ではありましたが、その日体育祭が終わった直後の息子を引き連れ、父の足跡を確認するため台風発生直後のフィリピンへ飛び立ちました。

この記事は、父、田中久雄とフィリピンの関係、そして今回の旅行について書いたものです。少し長いですがお目通しいただけると幸いです。

男子部52回生
田中 登


● フィリピン行きのきっかけ

 事のきっかけは2年ほど前になります。父を家に招き家族で食事をした際に、フィリピン水道事業について詳しい話を聞く機会がありました。その中で「子供を海外に連れて行くなら、物が充足した先進国に行くのではなく、発展途上にある国に行きなさい。」というお話がありました。当時中学生だった息子には、単なる旅行ではない海外体験をさせたいと考えていたことも有り、その事は常に頭の片隅に残っていました。
 今年5月、父の告別式の際に、フィリピン水道事業の主体である公益社団法人アジア協会アジア友の会(以下JAFSと表記)創設者の村上専務理事からお声がけいただき、水道事業の25周年記念式典へ息子と共に参加することを決めました。個人的には2003年の訪問以来、20年ぶり2回目のフィリピンになります。

● 父とJAFSの長い付き合い

 父とJAFSの付き合いは非常に長く、私が初等部の低学年だった1980年代まで遡ります。その頃父は家業を継ぎ、当時の大阪府官報販売所(現在、D42松原さんが経営されている株式会社かんぽう)の経営者として大阪と東京を往復する生活でした。その頃にJAFSとの出会いがあり、よく空いた時間にJAFSの事務所(現在は、父が建てた官報ビル5階に在所)を訪ねていたそうです。
 人の役に立つこと、そして知恵や工夫を生かしたモノづくりが大好きな父は、会社経営の傍らJASFのボランティア活動にものめり込みます。インドの水が足りない地域などで井戸掘り事業などに参加していました。

 家にはインド直輸入の紅茶が大量にストックされていたり、父が得意のシルクスクリーンで「渇くアジアと世界に水を!」のポスターやTシャツを印刷していたことを思い出します。JAFSは、その他多くの形だけのボランティア団体とは異なり、物やお金、労働力を提供するだけでなく、技術や知識を伝えて最終的にはその地で生活する方々自身が自活できる形を目指しています。このフィリピンの水道支援事業は完成から25周年を迎えさらなる発展を続けており、JAFS史上最高の成功事業ではないでしょうか。

 自由学園に引き継がれているネパール・ワークキャンプも、JAFSによるネパール植林事業が最初のきっかけで始まったものです。私自身も高等科1年生の夏に始めての海外経験としてJAFSのネパール植林事業に父と共に参加し、現地の同世代の方々と寝食を共にして交流するという貴重な経験をさせてもらいました。個人的にはいろいろ人生を変えた体験でもあります。
その後も、ネパールでの活動は父が経営していた株式会社かんぽうの「ネパールみつまた」事業となり、多くの試行錯誤があったことは聞いておりますが結果として成功を収めています。経営者を退いた後も晩年までみつまたの木の皮むき機の開発を目指すなど、生涯を通じて手掛けることとなりました。

 父が作り上げたネパールみつまた事業は、現地の方の経済的な自立支援になると共に、日本の紙幣に良質な原料を提供するなど多くの人々の役にたっています。(そのこともあり、2016年に旭日双光章を受勲しています。)

● Pandanの水道事業とは

 話を元に戻します。今回訪問したPandanという場所は元々生活用水を井戸に頼っていましたが、水質が悪いため健康寿命が異常に短い等の悩みがありました。当時日本に留学していたアマンテさん(前フィリピン大学副学長)が、1991年にJAFSの村上さんに助けを求めたことからこの事業の検討が始まりました。当初は井戸を掘って欲しいという依頼だったのですが、当時JAFSの理事もしていた父はこの事業が実現可能なのかを確かめるために1992 年から何回も現地を訪れ調査や検討を実施。当初依頼された井戸ではなく水源地から水道を引く必要があると判断し、1993年にPandan水道事業プロジェクトがスタートしました。

 一介のボランティア団体の手には余るような事業内容でしたが、父はプロジェクト推進のリーダーとして自ら率先して動き、知恵と工夫で数々の難局を乗り越え、縦横無尽の働きをしたとのことでした。現地の方々とも心を通わせ共に力を合わせ、ご協力をいただいた技術者の方々、そして多くの支援者やJAFSのサポートのもと1998年10月に水道事業プロジェクトは完成されました。
実際はここに書ききれないほどのストーリーがあるのですが、詳細については書籍『マロンパティの精水』や、映画『セカイイチオイシイ水~マロンパティの涙~』をご覧いただけると幸いです。
この事業は、父の経験や技術、知恵と工夫、そしてただ人のためだけにという私心の無い父の行動が生かされた一つの集大成だと思います。

Pandanの水道事業は書籍化され
それをもとに映画化もされています

Kindle Unlimited会員は無料で読めます

映画の主演は赤井英和
(脚色もあり複数の人物の役割を一人が演じています)
Amazon prime(会員は無料)やU-NEXTで配信中!

 このプロジェクトの開始当時は1.5万人だった町の人口は、水質が良くなったこともあり現在は3万人以上と倍増し、水道接続戸数も約6,500戸まで増えました。町の生活と健康を支えるこの水道事業は、現在では完全に現地の方々によって運営・管理されており、父の目指した現地民による自活支援が25年経ったいまも機能し、多くの方々の日々の生活に役立ち続けていることは本当に喜ばしいことです。
Pandanの水道水は蛇口の水をそのまま飲めるというフィリピンでは珍しいものであり、非常にきれいでおいしい水と有名になりました。また、その水源地であるマロンパティも美しい景観から観光名所となり、現在は海外からの観光客も多く訪れる場所になっています。

● 1日目:Pandan訪問

 さて、旅行記ということなので、今回の主な訪問内容にも触れたいと思います。
お題目としては10月2日に行われる水道事業の25周年記念式典への参加でしたが、個人的な目的としては、父がここで何を行い、現地の方にどのように役立ち、現在はどうなっているのかを息子と共に確認したいということでした。

 初日は深夜便で寝不足の中到着。現地のアジア友の会(AFS)のメンバーに自己紹介をしました。多くの方から父への感謝やお悔やみの言葉をいただき、まず涙。その後Pandanの新しい市長を訪問し、歓迎の昼食をいただいた後にプロジェクトの足跡を辿り水源地のマロンパティへ行きました。
そこは父が大変苦労したポンプ小屋のある場所です。現在は観光地になっており、以前のような静けさが無いことが少し残念な気持ちになりましたが、経済的な側面では現地の方の大きな収入源ともなっています。経済と環境を如何に両立していくかが今後の課題と感じました。

ポンプ小屋までの道
父が多くの時間を費した場所です
父と母。ポンプ小屋の内部にて。
(2013年撮影)

 ポンプ小屋は前回来たときよりも綺麗にされており、2階建ててになっていました。管理者は父と一緒に仕事をしていた方から2代目に引き継がれて、現在は息子のロバートさんがしっかりとメンテナンスをしてくれていました。実はこの場所に父の遺骨の一部を埋葬させて頂く予定だったのですが、同行していたPandanの市長さんから父の記念碑をここに立ててくださるというお話をいただきました。将来はこちらにもお墓参りに来ることになりそうです。

ポンプ小屋の前で父の遺影を持つ息子
ここに記念碑を建てていただける予定

ProjectのChair Personとして
父の名が刻まれていました

 マロンパティ奥地の水源地を確認した後は、パンダン市内の小学校を訪問。父がしていたように現地の方とお話をして、お土産として日本の折り紙を子どもたちに配りました。そこで急遽、折り紙教室を開催して欲しいという無茶振り受け四苦八苦していたのですが、サポートしていた息子のところに何故か行列ができサインや写真撮影を求められる事態に。びっくりしながらも頑張って対応していた息子を褒めたいと思います。
台風の風も強かったですが、それ以上に嵐のように過ぎた一日でした。

皆さん折り紙がとても上手でした。
サインをせがまれる息子
(行列ができてました)

● 2日目:盛大な記念式典

 翌日はパンダン水道局を訪問し、現在の水道局長に父の写真をお渡ししました。水道局に飾っていただけるとのことです。25年前に設立された水道局ですが、職員は30名近くになり、現在は6,500戸/3万人以上の方の生活を支えています。パイプラインの長さも当初は約13kmだったものが、いまではその数倍まで延長され、新しい水源地の検討も始まっています。いまも父の支援が生き続け、人々のお役に立っていることは本当に感慨深い気持ちになります。

水道局長に父の写真を託しました
今は事業所の壁に飾られています

後ろには市内のパイプラインマップ
約6,500戸へ水を届けています

 その後、もう一つの事業の山場であった山の上の巨大なタンクを訪問しました。いまは追加のタンクも設置され、さらにドイツ製の浄化装置も追加されておりました。当時は浄化装置もこのように高いものは入れられず、父が工夫して自動で塩素を投入する装置などをいろいろ作っていたようです。そのあたりも自由学園の施設管理者として、テニスコート横の井戸水を管理し、校内の多くの蛇口の水の点検をしていた父の経験が生きたのではないでしょうか。(生活団に居たころは、校内の点検に行く父についていきました。)

山の上の巨大タンクの上から
新しい浄化装置を眺めて
山の上の巨大タンクの上にて
(2003年撮影)

 再度マロンパティの水源地に戻り、大雨が降る中、環境保護の意味も込めて記念植樹を行いました。そして昨日とは別の小学校を訪問。演奏などの手厚い歓迎を受けました。その学校の高齢の校長先生に、父が亡くなったことをお話すると目に涙を浮かべて哀悼の意を表してくれたことが印象的でした。
他の場所でも、25年前の高校生の頃に水道パイプライン工事に参加した事など、父と一緒に働いた事をお話してくださる方が居たり、父との思い出を多くの現地の方から直接伝えていただけたことは今回の旅行の宝物です。

25周年記念式典のお知らせが
街中に何箇所もありました。

水道事業に誇りを持っている
ことが感じられます。

 夜は今回の目的の25周年記念式典です。台風接近のため豪雨の中での開催でしたが、非常に豪華な食事とお酒、音楽、踊りで盛り上がる式典でした。このあたりはノリが、お祭り大好きなSpanish系文化の民族であると感じました。キリスト教徒も多くMéxicoの文化にも似たものを感じます。祝賀スピーチでは父のことを語っていただく方が多くいらっしゃいました。また、父の代わりとして私や息子も表彰していただきました。自分自身がやったことではないのですが、父に対する感謝として有り難く受け取らせていただきました。(滞在中も、Mr. Tanakaの息子や孫ということで何回も歓迎いただきました。)

記念式典は夕方から深夜まで続きました
父に代わり表彰いただきました

● 3日目:水道事業以外にも

 翌日は、父が手掛けた他の支援について教えていただきました。途中立ち寄った街では2013年の巨大台風(ヨランダ)による被害で多くの漁船が壊れてしまったため、80艘もの漁船を支援したとのこと。その際も、ただ物を与えるのではなく、材料と作り方を支援し、現地の方が自ら作るというやり方をしたそうです。そうすることで自分たちで修理も、新しく作り出すこともできるようになります。

台風被害に遭った漁師のために
80艘の漁船を支援しました。
(2014年撮影)

その他、100kmほど離れたSibalomという地方の山の上の小学校に行きました。ここは父が88歳の頃、2019年に訪問した場所で、「何か不足しているものはないか?」と聞いて回っていたそうです。今回、JAFSはここに新しくトイレの建設の支援をしており、もうすぐ使えるようになることを確認しました。
フィリピンではトイレの使い方を高校生になるまで知らないという子供が少なからず居るようで、衛生面の知識も含め、そういう子どもたちへの支援になるとのことです。

Sibalomの山の上の小学校にて

 その近くの小学校も訪問しました。台風で作物がダメになってしまうことも多いため、そこでは作物の苗の育て方を支援したそうです。植物園を見せていただき、お土産に大量のフルーツをいただきました。日本では食べたことのない非常に美味しいフルーツでした。
また、Antique州の教育庁も訪問するなど、忙しい1日となりました。

謎の美味しい果物
中身は柑橘系?
苗の栽培の様子
こちらの農業技術は改善の余地がありそうです

 なお、今回は訪問しませんでしたが、父は水道事業が完成した後、80歳を超えた頃にも、2時間かけて登るような山の上に小学校を2校建設する作業にも従事したそうです。その学校は車では行けない場所で、今回は台風もあったことで訪問を断念いたしました。上記の漁船の支援や学校建設の話はいままで父からちゃんと伝えられたことも無かったので、今回知ることが出来て本当に良かったです。

(後ほど写真を追加したいと思います)

 夜は3夜連続パーティの最終日でした。嵐で停電ありつつも音楽と踊りのある陽気で素朴な集まりに心が癒やされます。滞在中は父がどのように現地の方と接し、心を通わせていたのかも多く聞きました。外国の言葉が得意でない父は、皆に飲み物を買って配ったり、こういうパーティの時は父なりの踊り方で皆に打ち解けていたとのこと。
プロジェクト開始当時から一緒に活動されているジニー博士からは、言葉でなく行動でものを示す人だと、そして慈愛に溢れ、人のために率先して行動をする人だというお言葉をいただきました。
「Tanakaサン」と多くの方から慕われ信頼されていたことを聞き嬉しく思います。

踊りまくるおばちゃんに
ダンスの指導を受ける息子。

● 4日目:マニラのストリートチルドレン

 翌日はマニラに移動し、そこではストリート・チルドレンの支援施設を訪問しました。マニラでは人口が爆発的に増えた結果、住む家が無かったり、あっても狭すぎて家で暮らせない子どもたちが大勢いるとのこと。マニラ市内を歩いていても、時折まだ歩けないような子供が道端に寝かされていて驚きます。日本と逆にフィリピンでは人口の約半数が25歳未満で、現在も人口増加が続いています。都市部では住居や就業の問題があり、家で寝ることさえ出来ない人が居ます。のどかなPandanとは別世界です。

慣れない英語で熱心に会話する子供たち
こういうのがやりたかった!

その施設では、JAFSから生活支援や学校に通うための奨学金を受けた子どもたちが集まっており、ひとときの交流と昼食の時間を持ちました。(無茶振りのスピーチもさせていただきました。)
そうした傍らで、息子と現地の子供たちが自然と交流を始めていました。いままで英語を話すことに対して苦手意識を持っていた息子ですが、なんとか頑張って言葉を交わしている間に、心の交流もできたようで本当に嬉しく思います。自分が高等科1年の時に体験したネパール現地の若者との交流を思い出しました。

家があるのはまだ良い方
ここに10名以上が住んでいるらしい。
(中も入りましたが本当に狭い)

 その後、貧困家庭の実情を見せていただいたりした後には、少しだけマニラ観光をしました。
マニラ大聖堂やサンチャゴ要塞、そしてフィリピン建国の父ホセ・リサールの博物館を見学しました。息子はフィリピンの言葉にも興味をもったようで、今回の道中ずっと現地の言語(ビサヤ語)の解読を試みていましたが、この博物館では英語とタガログ語等の両方の記述があり、解読のためのヒントを沢山入手できたようです。次回訪問が楽しみです。

夜の荘厳なマニラ大聖堂

● 父の足跡を辿って

 以上が今回の旅の要約です。仕事や学校行事、南沢会の業務などで忙しい中の強行でしたが、短いようで非常に中身が濃く、また意義深い旅行になったことを嬉しく思います。父が何を思い、何を成してきたのか、その一片でも知ることができ、息子にもそれを直接見せることができました。
世界の実情を肌で感じ、現地の方と直接コミュニケーションをすることで得たものは、何物にも代えがたい経験だと思います。

 父の足跡を辿るという意味では、ネパールもいつか訪問し、みつまた事業などについて確認したいと思います。その他、父は自分の知らないところで様々な方と関わり、多くの人を助けていたようです。
自分の知らないエピソードがいろいろあるのだと思いますが、父は多くを語らず、思い立ったら即行動する人だったので全て把握している人は居ないでしょう。度々、父に助けられた経験談をいただくことがあり、いつも驚かされます。是非、父と関わりがあった方はお話をさせてください。

 ➜ こちらに投稿いただく形でもOKです!父へのお言葉をいただけると嬉しく思います。


 昨年9月、敬老の日に息子が父に対してインタビューをした際、印象的な言葉をいただきました。
息子から「いろいろなお仕事をしていますが、⼤変だと思ったことは無かったのですか?」という問いに父は、

⼤変なことなど特に無かった。仕事はずっと楽しかった。好きなようにやらせてもらった。


子供の頃から好きだったモノづくりを通して、人のために役立つことを自ら人生の楽しみとして取り組んでいた父らしい言葉でした。

それがしっかりと言葉を交わせた最後で、その後体調を崩した父は今年4月末にこの世を去りました。
尊敬する父の生き様や、いただいた言葉、そして受けた愛情はずっと忘れません。

お父さん、ありがとう。

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